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  • 執筆者の写真渕上

金庫のカギが無い! 

「あなた、大変! 金庫のカギがどうしても見つからないの。」

家に帰った時、妻が顔を曇らせていた。

「金庫のカギ? よく捜したの? どうせどこかのバッグに入れているんでしょ!」

「ええ、私もそう思ってどれもひっくり返したけど、どこにもないの。」

金庫と言っても、残念ながら札束や宝石が唸っているような立派な金庫ではない。

火災保険証書や印鑑などを入れているだけの小さな耐火金庫です。

とは言え印鑑証明などを取る時は、開かないと困るわけです。

ちょっと必要があったのですが、ガンとして絶対に開きません。

(まいったなあ・・・)

当たり前ですが、金庫が開かないとなるとこんなに困るとは想像していませんでした。

もしかしたら天国も、閉じられた門に立ってから事の重大さに気がつくのかもしれません。

「今日、一日中かけて捜したんだけど、どうしても見つからないの。」

「何かの服のポケットは? エプロンやコートのポケットなんかも?」

「それも考えて、服と言う服のポケットに手を入れてみたけど、無かったの。」

「最後に金庫を開けたのはいつ頃かな? 二カ月くらい前?」 

紛失するとすればどこに置いた可能性があるだろうかと、思い巡らす。

妻は将来リサイクルショップを開く予定なのか、古い服が山ほどあります。それらのポケットを全部チェックするのは大変です。しかし私も手伝って、もう一度すべてチェック。最近着た服などは三度も調べました。戸棚から引き出しまで勿論捜します。

「もしかしたら、あなたがどこかにしまったんじゃないの? それとも、そうだ!伝吉、あなたがどこかに咥えて行ったんじゃない!?」

いよいよ見つからないので、妻は私に疑いの目を向けたり、猫に無実の罪をかぶせようとし始めます。認知症になるとよくあるパターンでしょうか。

そう言えば十数年も前、義母の葬儀の時に預かったお花料の大金が無くなったと妻が騒いだことがありました。あの時は、台所の鍋と鍋の間からポロリと出て来て、

「ああ、そう言えば、ここに隠したんだった。」

なんて妻が笑っていたので、呆れましたが。 

翌日、私も自分の身の回りを探しますがやはり出て来ません。

(こんな時は金庫屋さんに来てもらうのかな?いくらぐらいかかるのかなあ?費用は高いだろうなあ。自分で壊そうとしても、バールじゃ壊れないだろうしなあ、神様、どうか見つかりますように!)

まさに苦しい時の神頼みです。普段、真面目に祈らない者だから、少しは祈るようにと叱責されているのでしょうか。

そして二日目の夕方、そろそろあきらめムードでした。ソファに座り、見るともなしにテレビのスイッチを入れ、改めて部屋を見渡します。

(うーむ、まだどこか捜してない場所あるかなあ?・・・神様、どこにあるんでしょ、教えてください・・・)

と、そんなことをつぶやきながらキョロキョロしていたら、ふと、今自分の座っているソファーに目が留まりました。

(え? ソファー、まさか、今さら、ソファーに有るはずありませんよね・・・)

ソファーには小さなクッションが三つあります。念のためまず右側のクッションを持ち上げます。何もありません。(そうだよなあ、あるはずないよなあ。)

次に真ん中のクッションをめくります。カギが出てくるのを期待しましたが、何も出てきません。(そうだよなあ、そんなにうまくいかないよね。)

そしてついでのようにして左側のクッションをめくりました。

その瞬間、私は声が出ませんでした。なんとそこに小さな銀色の金属が光っていたのです。

カギでした!

私はその銀色のカギを見つめ、数秒間神聖な気持ちにさせられました。

震える手とはこのことでしょうか、興奮の思いでそれを取り上げ、食い入るようにそれを見つめ、そして次に金庫に飛んでいきます。

(これが、はたして・・・)

カチャカチャ・・・合いました。確かに金庫が開きました。

笑いがこみ上げます。「やったー!」

そしてそのカギを頭の上に掲げ、その場でぐるぐる踊りまわり、小さな信仰で神様に感謝を繰り返したのでした。「神様、有難うございます、有難うございます」と、何度も何度も。

そして踊りながら、聖書の一節が頭に浮かびました。

「一緒に喜んでください。失くしたドラクマ銀貨を見つけましたから。」

ルカの福音書15:9

      

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