「わあ、危ねえべや!」
仕事で東区香椎あたりの国道3号線を走っていると、なんだか怪しげな軽自動車が目の前に割り込んできた。思わず大声を出してしまった。
一人でいても、車の中ではぶつぶつ呟いてしまうタイプなのだが、とっさに出てきたのが北海道弁だったことに我ながら驚いた。
「どちらのご出身なんですか?」
ちょっとした雑談の中では出身地も話題に上ることは多い。私は便宜上、いま実家のある神奈川県川崎市だと答えているが、実は同市には2年半くらい前に引っ越したばかり。半年間くらいしか住んだことはないので、福岡で暮らしている時間のほうが長いことになる。
愛知で生まれ、幼稚園から東京(の西の田舎のほう)、神奈川、そして北海道には小3から中1まで住んで、そこからまた東京(今度は23区内)。中2から高3まで過ごして、静岡の大学に進学した。
東京に本社を置く企業に就職したが、私はもちろん我が家にとっては縁もゆかりもない九州への転勤を命ぜられ、今に至る。
小学校時代の同級生の9割以上とは連絡も取れない(もっとも、顔も名前ももう忘れてしまったのだが)。地元の友達とか幼馴染という感覚も、私はよくわからない。
そんなわけで、約25年の人生で4~5年おきに住む場所を変えてきた私の出身地は「ない」。そして時々考えるのは、自分にとって落ち着く場所、「帰る場所」はどこなのだろうかということだ。
福岡は、食事もうまい、遊びに行くところもたくさんある、猫ちゃんがいる島もあるし、そこそこに都会だし田舎だし便利で過ごしやすい…などなど、住むには最高の街だ。
もう死ぬまでずっとここにいてもいいかもなー。リップサービスなどではなく、本当にそう思っている。
一方、羽田空港から都心に向かう京急線の車内からは東京の街並みがよく見える。建物が灰色の壁のように並ぶ、無機質でのっぺらぼうなその景色を眺めていると、どういうわけか不思議と安心感を覚えてしまうのである。
自分は一体どこの人間なんだろうか。もっと現実的な話をすれば、一体どこで生きていくのだろう、車はどこナンバーになるんだろう、どこに家を買うのだろう、どこで家庭を築くのだろう…。(もっとも後半は実現可能か否かも怪しいけれど)皆目見当もつかない。
「これらの人はみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。」(へブル11章13節)と、聖書は「我々は寄留者だ、旅人だ」という。
思えば私も、学生時代の長期休みにはバックパッカーの真似事をして日本中、そしてアジアやらヨーロッパやら、各地をふらふら放浪する旅をしていた。現地の人々との交流はあったし各地の文化を楽しんだが、それとて永遠ではない。そこそこにして次の街へと駒を進めていた。
今のこの日常は「旅」なのだ。次は、どこに連れてってくれるか楽しみだ。
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